嫌われ者のJASRACは「MIDI狩り」から何を学んだか?
JASRACはインターネットにおいて嫌われ者です。
カスラックという蔑称で呼ばれるのがその証左です。
その蔑称が使われたのは主に2000年代で、昔ほどは言われなくなりました。
それでもたびたびJASRACのネガティブな話題が上ることがあります。
※2017年に起こった「音楽教室著作権問題」。生徒が演奏した音楽に使用料がかかるとされ、議論を引き起こしました
現代でも悪い印象を持つ方は少なくないでしょう。
JASRACがそう呼ばれるようになるまで、何があったのでしょうか。
またそのような悪評からJASRACが得たものは何だったのでしょうか?
JASRACの誕生と反JASRAC意識の起源
1939年11月18日、48人の作詞・作曲家が集まり、JASRACの前身組織となる「大日本音楽著作権協会」が設立されました。
奇しくもポーランド侵攻があった直後の設立であり、それが後に第二次世界大戦に発展してしまいます。
事業を軌道を乗せるまでに苦戦を強いられた様子が、JASRACが公開しているPDFに綴られています。
※JASRACのサイトのページ「JASRAC80年史-音楽でつながる未来へ-」からリンクされているPDFです
「1944(昭和19)年の秋、空襲は日ごとに激しさを加えてきた。私たち2人(佐々木と中山晋平理事長)は防空頭巾を被り、協会(新田ビル)の廊下に柿をかじりながら退避していた。それは中山理事長と私との世にも哀れな姿であった。その頃の職員といえば、男女合わせて僅か4、5人、その給料さえも満足に払えない時代だった。私たちのその哀れな姿が、当時の協会の姿でもあった」
※当時のJASRACがあった旧京橋区の被害は、東京都中央区のホームページから確認できます。隣の旧日本橋区に至っては街とは言いがたい凄惨な状況であることが分かります。現代人の感覚からすると、この状況下で業務を遂行する気にはとてもなれませんね
第二次世界大戦の影響もあり、JASRACは国外の作品に手が及びませんでした。
終戦後、GHQから認可を受けたフォルスター事務所という管理事業者が参入します。
当初の業務は海外作品の翻訳権の仲介でしたが、後に音楽著作権の管理事業へ発展します。
しばらくJASRACの競合相手として存在していましたが、「政府の許可が私個人に与えられたもので、恒久的に役務を提供することができないことがわかった。私の選択すべきことは、当事務所の閉鎖である」とし、1974年末に廃業します。
フォルスター事業所の事業は1975年1月1日にJASRACへ引き継がれます。
こうして国内外の音楽著作権管理に至り、日本の音楽業界において大きな地位を獲得しました。
音楽の著作権管理は、JASRACにしかできない独占業務になりました。
この独占業務は、1975年から2001年に至るまでの約26年続きました。
JASRACのPDFにも記載がある「黒い霧事件」を初めとして、決して良い印象を持てない歴史もあります。
特筆すべきは、JASRACに対する悪感情のきっかけになった、1994年の不正融資疑惑です。
となるとやはり思い出すのは、1994年におけるJASRACの古賀政男財団に対する不正融資の問題であります。なぜか、Wikipediaには出てませんが、「JASRAC 古賀」でネットをサーチするといろいろ出てきます。
かいつまんで言うと、古賀政男(日本の有名な演歌系作曲家です)の遺族財団に、JASRACが著作権料のプール金から77億円を無利子で貸して、財団の土地にビルを建てさせてJASRACから賃貸収入を払うという利益供与と思われてもしょうがない行為をしたため、一部のJASRAC会員が旧執行部を告発したということです。最終的には和解が成立してますので、話を蒸し返すわけではないですが最近の若い人は知らないのではと思い、歴史的経緯として書いておきます。
ところで、この事件の時に旧執行部に対して先頭に立って立ち向かったのが作曲家の小林亜星氏です。私は記者会見で異常なテンションで怒りを爆発させていた亜星氏を鮮明に覚えてます(「リアル寺内貫太郎」みたいでした)。その後、亜星氏はJASRAC内の一種のオンブズマン組織であるJ-SCAT(日本作詞作曲家協会)という団体を立ち上げました。J-SCATのWebサイトの活動の軌跡を見るとJASRACの過去の問題点がいろいろとわかります。
JASRACの黒歴史にちょっと触れてみる:栗原潔のテクノロジー時評Ver2:オルタナティブ・ブログ
作曲家の財団に77億円を無利子で貸し、財団の土地に建てられたビルの家賃をJASRACが払ったとする疑惑です。
この金額の元手が、著作権料として徴収し、著作者に支払うためのお金であったため、問題になりました。
これに強く反発した小林亜星さんは、1960年代から2020年代初頭にかけて活躍したアーティストでした。
生涯に6000曲以上書き残した作曲家であり、俳優やタレントとしてもよく知られていました。
CM曲や歌謡曲、アニメソング、テレビ番組のテーマ曲など、生涯に6000曲以上を残した[1]。1976年「北の宿から」で日本レコード大賞を受賞し、2015年には日本レコード大賞功労賞を受賞した[1]。
小林亜星 - Wikipedia
NexTone誕生の背景
JASRACは長年にわたって、仲介業務法の庇護の下、音楽著作権管理事業の独占を謳歌してきた[注1]。しかしながら、1994年に発覚したJASRAC事務所移転に関する不正融資疑惑事件を皮切りに、JASRACの運営体制に対する批判が噴出することになった 。とりわけ、1997年から1999年にかけて、JASRACの硬直的な管理体制を批判したり、独占がもたらす弊害を指摘する者が続出した。驚くべきは、権利者であるアーティストたちがJASRACを公然と批判し始めたことである。
NexToneとJASRACはどう違うの?【よくわかる音楽著作権ビジネス】 - INTERNET Watch
この出来事で、権利者であるアーティストが声を上げ始めました。
JASRACに批判を行う流れが作られました。
1990年代中盤のこの頃、CD、インターネット、通信カラオケなど様々な音楽メディアが台頭しました。
既存の管理体系に適合しない商品が次々と現れ、世間からの反感も招きます。
JASRACの硬直的な管理体制を象徴するのは、新しいメディアに対する著作物使用料の決定方法であろう。この時期、CD-ROM、CD-EXTRA、インターネット、通信カラオケといった新しいメディアが次々に登場し、今までにない形態の音楽ビジネスが次々に誕生した。しかしながら、JASRACの著作物使用料規程にはCD-ROM、CD-EXTRA、インターネット、通信カラオケに対応する項目がないため、JASRACは既存の使用料規程を強引に当てはめるか、新しい規程の作成後に遡及して使用料を徴収するとしていた。その結果、CD-ROMの著作物使用料が小売価格の60%を占める商品が現れるに至り、利用者から大きな反感を買うことになった。
NexToneとJASRACはどう違うの?【よくわかる音楽著作権ビジネス】 - INTERNET Watch
後手の対応が招いた結果でした。
これらの出来事をきっかけとして、2001年10月に施行された著作権等管理事業法により、JASRAC以外の管理事業者が参入できるようになりました。
2001年10月から「著作権等管理事業法」が施行され、著作権等の管理事業は同法の定めに基づいて実施されることになりました。
著作権等管理事業法 JASRAC
この法律は、著作権管理事業への新規事業者の参入を容易にするなど、これまでの仲介業務法(著作権ニ関スル仲介業務ニ関スル法律)のもとでの規制を大幅に緩和するものになっています。
これまで、著作権管理業務を行う場合は、文化庁長官の許可が必要でしたが、この法律では、一定の条件を満たせば管理事業を行える「登録制」となり、使用料規程もこれまでの「認可制」から「届出制」に改めています。
これを受け、音楽の著作権管理事業はJASRACの独占ではなくなります。
著作権等管理事業法の成立により、著作権管理事業は自由競争の時代に突入した。この法律に基づいて、イーライセンス、ジャパン・ライツ・クリアランス、ダイキサウンドといった事業者は、JASRACが長年独占していた音楽著作権管理事業に新規参入した。
NexToneとJASRACはどう違うの?【よくわかる音楽著作権ビジネス】
大きな地位を獲得していたJASRACが、全盛期と比べて組織として弱体化したのです。
これが2001年までのJASRACを取り巻いていた状況です。
さて、ここからが本題です。
インターネットにおいてJASRACが嫌われるようになった原因は、同時期の2001年に起きたある出来事でした。
誤解された「MIDI狩り」
1981年に誕生したMIDIは、インターネットの前身となるパソコン通信を通じて普及しました。
MIDIデータには音楽の演奏情報を含めることができ、それを電子楽器やPCで再生できるという、当時は画期的な技術でした。
1995年辺りからインターネットが普及し始め、個人によるMIDIデータの公開がより進みました。
秩序のために破壊されたMIDI文化
しかし主に公開されるMIDIデータは、既存の音楽を無断で耳コピしたものが多かったのです。
それは有名なJ-POPだったりゲーム音楽だったりしました。
そこでJASRACは、2001年頃にMIDIデータを公開している個人に対して料金の徴収を開始したのです。
1曲あたり150円/月、もしくは、1,200円/年という料金設定でした。
実際には無数の個人に対して警告メールを送るという涙ぐましい努力がありました。
「あなたの運営する上記ホームページでは~」から始まる長いメールを要約すると、「あなたはJASRAC管理楽曲を違法に掲載しているから、お金を払うか今すぐに削除してください」というものです。
そのようなメールが突如として送られてきたのです。
この出来事はMIDI文化以外にも波及しました。
当時既に存在した着メロ文化、BMS文化などにも衝撃を与え、音源を公開していた個人のホームページが閉鎖するなどの混乱も起こりました。
※着メロというのは、2000年代に普及したガラケーでよく使われていた着信用音楽です
※BMSというのは、BM98のファイルフォーマットのことです。BM98自体は著作権的にグレーなクローンゲームであり、今でも権利関連の懸念を抱える文化ですが、1998年を起源とする、一言では語れないとても複雑で奥の深い歴史があります
本当に個人ホームページの閉鎖騒動はあったのか?
これはあくまで通説です。
口伝のみで実際にどのような混乱があったかのソースは見つかりませんでした。
インターネットが一期一会であることを思い知らされました。
唯一見つけられた、ニフティサーブが運営していたMIDIフォーラム(FMIDI)の記事です。
インターネットのウェブサイト上には、個人が制作したヒット曲などのMIDIデータが多数公開されているが、7月以降、JASRACが新たに定めた著作権使用料規定が適用。同団体が管理している楽曲については、個人が非営利目的で公開する場合であっても著作権使用料が義務づけられることになった。10曲あたり年額1万円(月額1,000円)または1曲あたり年額1,200円(月額150円)が発生する。
@niftyの「MIDIフォーラム」ではこれまでパソコン通信上のサービスとして、会員が自作のMIDIデータを公開できるコミュニティを運営していたが、新規定の適用により「存続の危機」に直面してしまったという。そこで同フォーラムでは、会員が無料でMIDIデータを公開できる場の存続をニフティに提案。さらに両者が楽器メーカーのスポンサー協力を得て、今回のウェブサイト開設に至った。
JASRACの著作権使用料フリーでMIDIデータを公開できるサイト
企業が運営していたフォーラムですら「存続の危機」に立たされたというのですから、個人サイトに激震が走っていたのは想像に難くありません。
これをきっかけとして閉鎖を決めた個人サイトがあるのは必然と言えるでしょう。
音楽に限らずこのような例はたびたび存在し、1996年にあったファイルフォーマット「GIF」の特許問題においても強制的な徴収による混乱が起こり、個人サイトの閉鎖が相次ぎました。
こちらも口伝ですが、このように複数の例があれば事実を推定できます。
GIFの歴史に興味がある方は以下の記事をどうぞ。
著作権的に問題のないオリジナル曲のMIDIに対しても警告文を送っていたという口伝も散見されることから、無差別的にMIDIデータに対する警告を行ったとも推察できます。
インターネットユーザーを逆なでした原因は、無差別で強権的な態度です。
ニフティサーブが運営していたMIDIフォーラム(FMIDI)には、音楽制作ソフトウェア(DTM)のユーザーが集っていたコミュニティがありました。
この中にはオリジナル曲を作るDTMのユーザーが集うコミュニティ(FMIDIORG)もありました。
もしMIDI文化がなくなれば、DTMのユーザーが散り散りになってしまいます。
DTMのユーザーとは即ち音楽家であり、それはインターネットにおける音楽の衰退を意味していました。
1994年から1999年にかけて多くの音楽家がJASRACを批判したように、2001年ではインターネットで活動する音楽家が批判を始めたのです。
そして実際に、インターネットからMIDI文化は失われてしまいました。
パソコン通信版FMIDIは2005年3月31日にフォーラムが閉鎖され、インターネット版FMIDIはユーザーが減少し、2007年3月31日でサービスを終了しました。
これが通称「MIDI狩り」です。
インターネット上ではこれがきっかけでJASRACの蔑称が使われるようになりました。
なぜJASRACがこのようなことをしたかというと、楽曲の権利者にお金を渡すためです。
徴収した金額の一部はアーティストに行き渡ります。
とはいえMIDIの違法視聴が社会問題化していたわけではありませんし、趣味が高じてMIDIデータを作っていただけで、DTMユーザー同士の技術交流という側面もあったので、ユーザーからは恨まれたのです。
後世から見たMIDIの真実
しかし一方で、同時期である2001年頃からmp3という音声フォーマットが普及したことから、再生環境が異なると音も異なる性質を持つMIDIが廃れるのは必然である、とする意見もあります。
※MIDIが保持しているのはあくまで演奏情報であり、ピアノの何番の鍵盤を押した/離した、というようなデータしか入っていません。そのため、再生する環境によって音が違います。
また、高速なインターネット接続サービスであるADSL(光回線の前身)が普及したのもこの時期で、MIDIよりもはるかに容量の大きいmp3がすぐにダウンロードできるようになったこともmp3の普及を決定づけました。
従って「JASRACがMIDI文化を破壊した」は事実ではありません。
着メロ文化はスマートフォンの普及(ガラケーの衰退)という全く異なる理由で壊滅し、BMS文化は独自の発展を遂げて2023年現在も残っていることが証拠です。
しかし「JASRACがMIDI文化を破壊したという風説が一般化していた」は事実です。
この風説は日本の同人音楽文化に少なからず影響を与えているので、興味があれば覚えておくべきでしょう。
このMIDI狩りでバッシングを受けた反省は、後に活かされることになります。
なお、音楽制作の現場や一部のゲームでは今でもMIDIが使われています。
この記事で述べているMIDIというのは、一般ユーザーが音楽を聴くためのMIDIです。
動画サイトの登場と包括契約
舞台は2005年に移ります。
2005年2月15日にYouTubeが設立され、2006年10月9日にGoogleに買収されました。
買収金額は16億5,000万ドル(約2,000億円)でした。
YouTubeはアメリカのベンチャー企業でしたが、その人気の高さから動画共有サービスの需要が証明され、翌年にはYouTubeがGoogleの傘下になったのです。
そして、日本においてもその波が訪れます。
2006年12月12日、ドワンゴがニコニコ動画の最初のバージョンをリリースしました。
これが瞬く間に人気となり、サービス開始半年ほどでユーザー数100万人を突破します。
先見の明を持ったJASRAC
しかし2007年12月頃、ニコニコ動画において「初音ミクJASRAC登録事件」が起きてしまいます。
二次創作が盛んに行われていた楽曲が、突如として使用できなくなったのです。
問題となった楽曲は、歌詞の改変やリミックスを施した二次創作楽曲が多数存在し、同人文化ならではの発展をした楽曲でした。
初音ミク関連で最も人気の高い動画は「みくみくにしてあげる」で、ニコニコ動画では3月16日時点で389万回以上再生されている。「みくみくにしてあげる」は、鹿児島弁や熊本弁などのご当地バージョンも登場するなど、派生コンテンツが数多く生まれているという。また、あるユーザーが楽曲を作ると、それに触発されたユーザーが楽曲に合わせたイメージ画像を制作するなど、ユーザー同士の協業が進んでいることも特徴であるとした。
「初音ミクの著作権ってどうなの?」販売元のクリプトン伊藤社長が講演
それが作詞作曲家と3社の企業とJASRACに渡る複雑な認識違いや手違いにより、同曲がJASRAC管理楽曲になってしまい、上記の二次創作は全て著作権に違反する結果になったのです。
その矛先は関係者一同に向き、JASRACも再び非難されました。
この記事の最初にあった折れ線グラフを覚えていますでしょうか?
2007年12月は、歴史上最もJASRACが激しく非難された時期です。
しかしその後の2008年4月1日、ニコニコ動画内でJASRAC管理楽曲の二次利用が可能になりました。
そしてニコニコ動画の契約締結から4か月後、YouTubeでも同様の契約が結ばれました。
これは動画投稿サイトにJASRAC管理楽曲を使用した動画を投稿した時、動画サイトの運営会社が代わりに著作権料を支払う、という契約です。
演奏したり歌ったりした動画も含まれます。
今回の契約締結により、ユーザーがニコニコ動画において合法的にJASRAC管理曲を使用可能になる。例えば、自分や友人が演奏・歌唱している様子などを収録した動画をニコニコ動画に投稿することが可能になる。ただし、他の動画投稿サイトと同様、市販の音楽CDの音源をそのまま二次利用することはできない。
ニワンゴはJASRACに対し、契約に基づいて音楽著作権の使用料を支払う。今回の契約では、「ニコニコ動画が得る収入の1.875%」と定められた。ここでいう収入は、ニコニコ動画の有料会員が支払う料金、ニコニコ動画に掲載される広告から得られる広告料などが含まれる。この条件は、先にJASRACとの契約を締結しているヤフーやソニーと同じという。「ストリーム配信に適用される料率が1.5%。これに、個々の投稿者が音楽を複製することを加味し25%増とした」(JASRAC広報部)。
JASRACとニコニコ動画がついに契約、楽曲の二次利用が可能に
これにより、同曲の二次創作楽曲が著作権的に問題がない存在になり、「初音ミクJASRAC登録事件」が引き起こした二次創作が不可となる問題が解決しました。
問題となったのが2007年12月であり、解決したのが2008年4月というわずか4か月のスピード解決でした。
このスピード解決には理由があります。
実は問題が起こる半年前、JASRACが先んじて契約締結に向けて動いていたのです。
JASRACは2007年6月に「動画投稿(共有)サービスにおける利用許諾条件について」と題する文書を配布、音楽著作権の包括的な利用許諾を受け付ける態勢を整えた。これに基づき、同年7月にJASRACとヤフーとの間で初の包括許諾が締結された。JASRACとニワンゴとの間でも、同年10月に契約締結に向けた協議を始めていた。
JASRACとニコニコ動画がついに契約、楽曲の二次利用が可能に | 日経クロステック(xTECH)
これは1990年代中盤の反省を活かしています。
過去には新しい音楽の形態に既存の管理体系が対応しきれず、世間から反発を招きました。
そのJASRACが、動画サイトが流行りだした時点で手を回していたのです。
後手に回った対応が先手になった瞬間でした。
MIDIが遺した道しるべ
これらの包括契約の先駆けは、2001年にあったニフティサーブMIDIフォーラム(FMIDI)です。
FMIDIはDTMユーザー同士の交流のほか、ユーザーが自由にMIDIを公開できる場でした。
インターネットのウェブサイト上には、個人が制作したヒット曲などのMIDIデータが多数公開されているが、7月以降、JASRACが新たに定めた著作権使用料規定が適用。同団体が管理している楽曲については、個人が非営利目的で公開する場合であっても著作権使用料が義務づけられることになった。10曲あたり年額1万円(月額1,000円)または1曲あたり年額1,200円(月額150円)が発生する。
@niftyの「MIDIフォーラム」ではこれまでパソコン通信上のサービスとして、会員が自作のMIDIデータを公開できるコミュニティを運営していたが、新規定の適用により「存続の危機」に直面してしまったという。そこで同フォーラムでは、会員が無料でMIDIデータを公開できる場の存続をニフティに提案。さらに両者が楽器メーカーのスポンサー協力を得て、今回のウェブサイト開設に至った。
サイト運営をニフティがサポートとするとともに、有数のDTM用楽器メーカーであるローランドとヤマハが著作権使用料を肩代わりする。これにより、MIDIフォーラムが楽曲の使用許諾手続や著作権使用料の支払いを代行するかたちとなり、@niftyの会員であればこれまで通り、無料で手軽にヒット曲などのMIDIデータを公開できる。
JASRACの著作権使用料フリーでMIDIデータを公開できるサイト
2001年7月から正式に始まった「MIDI狩り」の影響で、FMIDIは著作権に反する存在になりました。
本来ならばMIDIを公開した個人が著作権料を支払わなければなりませんが、既に公開されたMIDIデータについて一人一人に連絡を取ることは困難を極める上、MIDIデータが著作権に違反しているか否かも確認しなければなりません。
そもそも後から「金を払え」というのは酷でしょう。
存続の危機に立たされたFMIDIは、DTMのソフトウェアメーカーの協力を得て、利用者が公開したMIDIの著作権使用料を肩代わりしたのです。
FMIDIとそれを運営するニフティによる行動の結果でした。
FMIDIにおける契約から6年後の2007年。
それは大手動画投稿サイトの包括契約に昇華し、JASRAC側が率先して契約を受け付けるまでになりました。
結局、MIDIが廃れたことによってFMIDIは役目を終え、同年にはその姿を消しました。
しかし、次世代が発展するための種を残しており、JASRACがそれを拾い上げ、やがて芽吹いたのです。
ユーザー側の人間として
JASRACに悪い印象を持つ方はとても多いです。
それは今では、音楽を生み出すアーティスト、音楽を使用する表現者、音楽を聴くユーザーによりません。
私もインターネットユーザー側の人間でしたから、決して良い印象を持ってはいません。
しかし、JASRACもそれを把握しているような節は見られます。
大きな組織ですから、組織内でも一枚岩ではないでしょう。
そもそもの話をするならば、JASRACは音楽業界に必要不可欠な存在です。
かつてのライバル「フォルスター事業所」を失ったJASRACにも、新たなライバル「NexTone」がいます。
JASRACが影響力を強めたのは、音楽業界とJASRACが二人三脚、一蓮托生の存在だったからです。
2000年代以降、JASRACが持つ影響力の外にあった同人音楽が発展し、音楽業界に影響を及ぼすまでに成長しました。
音楽業界は、JASRACの手のひらに収まらないほど大きくなりました。
私が把握しているのですから、JASRACがそれを把握していないわけがありません。
これからの音楽業界がどう発展していくのか、私は楽しみです。