ボカロPたちが戦った20年間のセカイ(零) 同人音楽文化の成立
意外と知らないボカロ史・前日譚。
初音ミクをはじめとしたVOCALOIDは、今や日本で知らない人はいないでしょう。
そこには苦難の歴史もありました。
そんなボカロがセカイに広まるまでのお話です。
現在3記事、全部で10万文字以上あります。
ちなみに文庫本が1冊あたり10万文字くらいらしいです。
(残りはまだ執筆中です。1年くらい前からちまちま書いてたらいつの間にかこの量になっていました)
本記事
全部読む方は立派なボカロ好きかもしれません。
もし読んだらTwitterとかでぜひ感想を呟いてください。
(ボカロ関係ないけど音ゲー制作中なので興味があったらついでに@kaede_hrcのフォローお願いします。完成はまだまだ先ですが……)
※この記事には、以下のようなパーツが多くあります。
これは余談や挿話のようなもので、本題から逸れる話題がある時に設置しています。
興味があれば読んでみてください。
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同人音楽の成り立ち
「同人音楽」という言葉をご存じでしょうか?
- 東方アレンジ(2004年~)
- VOCALOID(2003年~) ※一般的には初音ミクが登場した2007年以降とされる
この2つは特に有名で、分類としては同人音楽になります。※商業寄りであれば同人と見なされない場合もある
ところが、同人音楽はこれらが存在する前から存在するのです。
同人音楽とは何者なのでしょうか?
結論から述べると、同人音楽は主に「同人活動で発表した音楽、その活動」のことを指します。
実態としては以下が多く見受けられます。
- アニメ、ゲームなどの既存楽曲のアレンジ
→最もメジャーな例:東方アレンジ曲 - 初音ミクなどの版権コンテンツをモチーフに制作した楽曲
→最もメジャーな例:ボカロ曲 - 自作のオリジナル楽曲
→最もメジャーな例:同人音楽家が頒布するCDに収録した楽曲
オリジナルBMS楽曲もここに分類されます
音楽以外の同人活動においては、同人誌や同人グッズの頒布がよく見られます。
世界最大規模の同人イベントであるコミックマーケットが有名です。
そんな同人音楽は、DTM(DeskTop Music。コンピュータを使う音楽制作のこと)の登場とともに現れました。
1980年代後半、ローランドから発売されたミュージくん(1988年)をはじめ、ローランドMT-32やSC-55等により、プロでなくともコンピュータミュージックを制作できる土壌が拡大。やがてそれらの愛好家たちは、オフラインあるいはニフティサーブ等のパソコン通信においてコミュニティを形成し、既存・自作曲のMIDIデータを仲間内でやり取りするという、同人音楽の原点ともいえる活動が始まっていった。
同人音楽 - Wikipedia
現在の音楽制作にとっては、プロとアマチュアを問わず、DTMが欠かせない存在になっています。
それまでは複数人でバンドを組み、ボーカル・ギター・ベース・ドラムなどの担当に分かれて歌唱・演奏する必要があったのが、DTMの登場によって1人でも音楽を作ることが可能になりました。
これが同人音楽誕生のきっかけになります。
必ずしも楽器やメンバーを揃える必要がなく、単に音楽を作る環境を用意するのみであればハードルが大幅に下がったため、個人による音楽制作が進んだのです。
自身で打ち込み用の音源を制作して使用する、ギタートラックのみ生録音して後で合成するなども可能で、ハードルが下がっただけでなく、音楽の表現方法の幅が広がったことも特徴です。
しかし依然として、ボーカルだけはDTMで作ることが不可能でした。
ボーカル曲を作りたければ歌声の録音が必須です。
ところがVOCALOIDの登場によって、そのボーカルすらもDTMで作れるようになりました。
音楽を作るという創作において、すべてをDTMで完結することが可能になったのです。
火付け役は「初音ミク」というVOCALOIDですが、実際に火を付けたのは初音ミクだけではありません。
そこには同人音楽家という存在もあります。
初音ミクとともに火を付けた同人音楽家は、どこから現れたのでしょうか?
そこでまずはじめに、ボカロ文化が誕生するまでの歴史をお話します。
MIDI文化の繁栄と衰退
MIDIという音声データのフォーマットをご存じでしょうか?
MIDIデータには音楽の演奏情報を含めることができ、それを電子楽器やPCで再生できるという、当時は画期的な技術でした。
そんなMIDIは、インターネットの前身となるパソコン通信を通して普及しました。
1987年4月15日、ニフティ株式会社がパソコン通信サービス「NIFTY-Serve」を開始します。
NIFTY-Serve(ニフティサーブ)には、画面の向こうの人物とコミュニケーションを取ることができる様々な機能があり、その中にフォーラム機能がありました。
当初はフォーラムの数は少なく、1つのテーマで1つのフォーラムであったが、のちには企業の方針もあり、趣味・志向の細分化に対応して1,000を超えるフォーラムが生まれていった。フォーラムの名称は半角英数字で表されており、先頭の一文字目にはフォーラムを略したFが付き、続いて扱うテーマに基づいた文字が割り当てられた。例えば、ソフトウェア専門フォーラムでは、FGAL(エフガル、エフギャル:GALはギャラリーの略)、通信関連ではterminalからFTERM(エフターム)などのフォーラムがあった。
ニフティサーブ - Wikipedia
そのフォーラム数は1000を超えます。
FMIDI、通称「MIDIフォーラム」もその1つでした。
FMIDI内には、オリジナル曲を扱うFMIDIORG(FMIDIオリジナルフォーラム、後にFMIDIから抜ける)、FMIDIMSG(FMIDIマイソングフォーラム)、西洋クラシック曲をメインに扱うFMIDICLA、日本の既存曲を扱うFMIDIDAT、海外の曲を扱うFMIDIDF、さらにソフトウェアなどを扱うFMIDITOL、ベンダーサポートの場FMIDIVAなどがあり、非常に充実していました。
しかし残念なことにその膨大なデータは、パソコン通信サービスが終了して、すべてNifty内からは消えてしまい、今では当時ダウンロードした個人個人のHDDやらFDやらZIP、JAZZ(古っ(^^;イナイヨ)にしか残っていません。
なんとも哀しいことで、いまではどんな人がどんな曲を発表したか、よくわからないし、当時から今まで、曲を作り続けている数少ない人のホームページくらいにしか、その痕跡が残っていない状況です。
そこで、その記憶をちょっとでも残しておきたいと思ったわけです。MIDIデータをアップロードできるフォーラムでは、毎月、人気投票なるものを実施していました。その月(25日〆)にアップされた曲のリストの中から、気に入った曲を選択し(数の制限なし)、1~5点をつけるシステムです。ベスト5までに入ると、FMIDIグッズがもらえました(FMIDIのロゴが入ったちょっとしたお楽しみもの。メモ用紙とか、万歩計とか、ロゴの入った変な板きれとか(^^;)。
Nifty FMIDIオリジナル系フォーラム資料室
個人による、MIDIフォーラムに関する貴重なサイト。
私はこの時代に生きてこの時代を見ていた人間ではありませんが、古き良き世界を感じます。
年月に分けられた投票結果のログから分かるのは、曲名と作者名。後に有名になった作詞・作曲家の名前もあるかもしれませんね。
このMIDIフォーラムには、たくさんの個人によってたくさんのMIDIデータが投稿されました。
現代では考えられないほど遅い回線速度に対して、数十kbで済むMIDIは扱いやすかったのです。
当時の回線速度は、通信制限中のスマホの約427分の1
スマホを使っていて通信制限された経験はありませんか?
通信制限中の最大通信速度は128kbpsであることが多いです。
※2023年時点。時代によって異なってくると思います
当時使われていたダイヤルアップ接続の通信速度は、128kbpsの約427分の1程度です。
MIDIファイルが20KBとすると、ダウンロードに9~10分かかる計算です。
通信速度は初期には音響カプラを用いた300bps程度であったが、モデムでパソコンと電話回線を直結できるようになると、モデムの改良と歩調を合わせる形で1,200、2,400、9,600、14,400bpsへと速度が上がり、インターネット・サービス・プロバイダ(ISP)のダイヤルアップ接続用アクセスポイントが主要都市に整備され始めた1996年頃には28,800bps、1997年頃には33,600bpsまで達した。
パソコン通信 - Wikipedia
300bps=0.3kbpsです。
1997年ですら33.6kbpsなので、当時の回線速度の遅さが伺えます。
MP3の場合、3分の曲でビットレートが128kbpsであると仮定すると、容量は3MBほどになります。
0.3kbpsの速度ではダウンロードに150時間以上かかります。
まだMP3が存在しない時代なので机上の空論ですが、MIDIが使われた理由はよく分かるでしょう。
登場したてだったDTMの技術交流をしつつ、DTMユーザーは自由に音楽を作っていました。
MIDIフォーラム以外にも、草の根BBS上でMIDI文化が築かれていました。
草の根BBSは個人運営の電子掲示板のことです。
中でもMIDI文化圏最大手の草の根BBSであった「ゆいNET」は、MIDI文化に大きく貢献しました。
特にMIDIに特化しており、多くのDTMユーザーが参加していた。既にプロであった人やその後プロになった人も数多い。
掲示板は音楽を中心として趣味雑談まで総合的に用意され、多くの会員がいる事から音楽だけでなくコミュニケーションを目的としたユーザーも集まった。
会員数は草の根BBSとしては多い、2万人を超えていたが、ROM/DOM歓迎という宣伝文句もあったことから入会に対するハードルが低かった事も要因として挙げられる。
また、会員による新たなホストの開局も多く、子ホスト、孫ホストが全国に開局した。
当時の個人運営の草の根BBSとしては珍しく、Computer Music MagazineやDTM MagazineといったDTM情報誌の編集部のIDがあった。
ゆいNET - Wikipedia
インターネットの登場
この頃の世界はアメリカとソ連に二分されており、東西冷戦時代の末期にあたります。
東西冷戦時代のアメリカでは分散型ネットワークシステム「ARPANET」が作られていました。
主要な拠点を攻撃されてもダウンしないネットワークシステムが求められたためです。
このARPANETがインターネットの原型になります。
少しずつ技術が進歩し、1988年にはTCP/IPという現代でも使用する技術で日米間の通信に成功しました。
さらにインターネットの基礎となる通信プロトコルTCP/IPを用いたNTT研究所内LAN構築を1984年から開始し、1988年にはNTT研究所(東京都武蔵野市)とスタンフォード大学(米国カリフォル二ア州)内のゲートウェイとの間でTCP/IP接続実験に成功、これにより初めてIPパケットが太平洋を横断しました。
インターネットの技術 | フロアガイド | NTT技術史料館
時代が進むにつれて、当初は軍事目的であった技術も研究用途に、研究用途から商用にシフトしていきます。
1970年代から二国間の緊張緩和(デタント)が進みます。
1989年、マルタ会談が行われ、両国が冷戦の終結を宣言しました。
その後の1991年にソ連が崩壊し、東西冷戦時代は名実ともに終焉を迎えます。
軍事的な意味を失い、民間向けに技術を転用する流れが加速します。
1985年から1995年にかけては、冷戦の終焉に伴う「平和の配当」として民間部門へ軍事部門
総務省|令和4年版 情報通信白書|1985-1995年頃:通信・放送市場の発展と新たなサービスの登場
の技術、人材、資金が流入したことやインターネットが民間開放されたことなど、インターネット
を中心とする情報化社会の基礎が培われた。
技術的にも実現可能になっていたインターネットが、ついに開かれました。
日本では1992年から民間人も利用可能になります。
1995年にWindows 95が発売され、本格的にインターネットの普及が始まります。
自身でホームページを公開する者が現れました。IBMのホームページ・ビルダーを使っていた方が多いのではないでしょうか?
ホームページでMIDIデータを公開するユーザーもいました。
日本国内に留まっていたパソコン通信の文化は、世界と繋がるインターネットに飛び出していきました。
パソコン通信で交流していたDTMユーザーたちは、インターネットで交流を始めるようになります。
これがかつて存在した、MIDI文化と言われる文化です。
MIDI文化の崩壊
ところが2001年頃のある日、ホームページを運営していたユーザーに対して、音楽の著作権を管理する団体「JASRAC」から警告メールが送られてきます。
メールの内容を要約すると、「あなたはJASRAC管理楽曲を違法に掲載しているから、お金を払うか今すぐに削除してください」というものです。
この警告メールを受け取ったユーザーは、1人だけではありません。
JASRACは無数の個人に対して警告メールを送るという涙ぐましい努力をしていました。
どういうことかというと、MIDIデータは既存の音楽を無断で耳コピしたものが多かったのです。
それは有名なJ-POPだったりしたので、JASRACで管理している楽曲が多く含まれていたのです。
上記のリンク先にもいらっしゃいますが、「著作権的に問題のないオリジナル曲のMIDIしか公開していないのに警告メールが送られた」とする口伝が散見されるのは、無数の個人に対して警告メールを送っていたからでしょう。
著作権に違反していることを根拠にメールを送っていたものの、その実、中身を聴いて判断していたわけではなかったということです。
無差別、かつ、無慈悲に行われました。
後世から見れば正当性の高い理由ではあります。
しかしあまりに配慮に欠けるやり方だったので、インターネットユーザーからは非常に強い反発があり、後の同人音楽文化の形成と発展にとても大きな影響を及ぼします。
そのためJASRACは、MIDIデータを公開している個人に対して料金の徴収を決めました。
1曲あたり150円/月、もしくは、1,200円/年という料金設定でした。
企業が運営するMIDIフォーラムも例外ではありません。
無数のMIDIデータを1つ1つ著作権に違反していないかチェックし、どこに住んでいるも分からない個人に対して徴収することなど不可能です。
存続の危機に立たされ、インターネット版のMIDIフォーラムとしての再スタートを余儀なくされました。
インターネットのウェブサイト上には、個人が制作したヒット曲などのMIDIデータが多数公開されているが、7月以降、JASRACが新たに定めた著作権使用料規定が適用。同団体が管理している楽曲については、個人が非営利目的で公開する場合であっても著作権使用料が義務づけられることになった。10曲あたり年額1万円(月額1,000円)または1曲あたり年額1,200円(月額150円)が発生する。
@niftyの「MIDIフォーラム」ではこれまでパソコン通信上のサービスとして、会員が自作のMIDIデータを公開できるコミュニティを運営していたが、新規定の適用により「存続の危機」に直面してしまったという。そこで同フォーラムでは、会員が無料でMIDIデータを公開できる場の存続をニフティに提案。さらに両者が楽器メーカーのスポンサー協力を得て、今回のウェブサイト開設に至った。
サイト運営をニフティがサポートとするとともに、有数のDTM用楽器メーカーであるローランドとヤマハが著作権使用料を肩代わりする。これにより、MIDIフォーラムが楽曲の使用許諾手続や著作権使用料の支払いを代行するかたちとなり、@niftyの会員であればこれまで通り、無料で手軽にヒット曲などのMIDIデータを公開できる。
JASRACの著作権使用料フリーでMIDIデータを公開できるサイト
インターネット版MIDIフォーラムでは、ユーザーが公開したMIDIの著作権使用料をDTM用楽器メーカーが肩代わりすることで、クリーンな環境を実現しました。
しかし個人運営のホームページはMIDIファイルの削除とともに閉鎖されるなど、混乱が起こりました。
一連の事件は「MIDI狩り」と呼ばれ、インターネット上でJASRACが嫌われるきっかけになりました。
「カスラック」という蔑称が広まるきっかけでもあります。
この感情は後世にも受け継がれ、後のボカロ文化で最も大きく高まることになります。
MIDIフォーラムも含め、ニフティサーブのパソコン通信版フォーラムは2005年3月31日に閉鎖します。
「ゆいNET」も同じ頃に閉鎖します。
2003年頃、ホストのハードディスクがクラッシュしバックアップのデータによって運営が再開されたが、2005年初頭ホストPCの永眠により閉局した。 この頃にはインターネットへの移行が進んでおり、アクセス数は1日100件を切る程まで減少していた。
ゆいNET - Wikipedia
インターネットの普及に伴い、パソコン通信は役目を終えたのです。
ところがインターネット版FMIDIも2007年3月31日でサービスを終了します。
なぜかというと、この頃にはMIDIそのものが役目を終えていたからです。
MIDIの代わりに、MP3という音声フォーマットが普及しました。
- 日本では2001年頃から、高速なインターネット接続サービス「ADSL」が普及した
- ADSLの普及によって、MIDIより容量がはるかに大きなファイルを扱えるようになった
- MP3は音源を忠実に再現できた
MIDIはその仕組み上、再生環境によって音源が変わります。
今となっては当たり前ですが、異なる端末で同じ音を再生できるようになるのはMP3の普及以降です。
2001年にApple社が発売したMP3プレイヤー「iPod」が大ヒットしたことも影響しているでしょう。
iPodが成功した理由は様々ですが、最も大きな理由は、大容量でたくさんのMP3を持ち歩けたことです。
初代iPodを発売した時期に他のメーカーは数十MBのSDカード等を音楽ファイルのストレージにしており、突然5GBの音楽プレイヤーを発売したことは大きな衝撃であった。
iPodはその時期に応じて投入される新しい世代の存在が市場における牽引力になり、2001年にオリジナルモデル(第1世代)が登場して以来、市場の中で高い地位を確保し続けていた。
iPod - Wikipedia
「ポケットに1000曲」の謳い文句で登場したiPodは、後にiPhoneを開発するAppleの伝説の1つでもあります。
MIDIが廃れるのは時間の問題だったのです。
確実に誤解を招くので補足すると、MIDIという技術自体は2023年現在でも使われています。
DTMで音楽を制作している方は「MIDIキーボード」を使用しているのではないでしょうか?
これはMIDIコントローラの一つで、DAWに音階やベロシティを打ち込む入力デバイスです。
表舞台からは姿を消しましたが、制作側では現役です。
MIDI文化圏のユーザーは急速に減少し、MIDIファイルの製法も失われました。
MIDIファイルが作られなくなったMIDI文化に待ち受けていたのは、文化の衰退でした。
しかし最も重要だったのは、居場所を失ったことでした。
2001年を契機に、ユーザーは交流や公開の場所を失ってしまったのです。
全ては「MIDI狩り」から始まった悲劇でした。
ここは当時の人の気持ちになって考えてみてください。
「あなたが今日まで歩いた道は今日から歩けなくなった。今から引き返して別な道を探せ」
そう言われたらどう思いますか?
MIDIの普及が始まったのは1980年代後半からです。
ここに至るまでに15年ほどの道筋があります。
きっと私の知らない出来事もたくさんあるでしょう。
それらは電子の海から失われ、風の噂に変わりました。
そして、MIDI狩りは強烈な出来事として記憶に刻まれます。
「JASRACがMIDI文化を破壊した」。
不幸にもそれと重なってMP3が普及し、MIDIを用いた交流は下火になりました。
この時代だから言えることですが、MIDI文化を破壊したのはJASRACだけではありません。
従って「JASRACがMIDI文化を破壊した」は事実ではありません。
しかし「JASRACがMIDI文化を破壊したという風説が一般化していた」は事実です。
これは大事なことなので覚えてください。
当時はSNSが存在しません。
人々は失くした自分の居場所を探しました。
音楽コミュニティサイト、2ちゃんねるのDTM板、MIDI狩りにもめげずに運営する個人ホームページなど、移住先は人によって様々だったでしょう。
MIDI狩りが与えた影響
MIDI文化には、オリジナル曲を作る文化もありました。
MIDIフォーラムにオリジナル曲を扱うFMIDIORGというフォーラムが存在していたことからも分かります。
しかし、最も規模が大きかったのは「既存の楽曲のコピー・アレンジ」でした。
- オリジナル曲
- コピー・アレンジ曲
MIDI狩りの影響により、後者の勢いが徐々に衰えてしまいます。
その結果、前者や、後に誕生する東方アレンジ文化が勢いを増すことになります。
なぜ同人音楽にオリジナル曲を作る流れができたのか?
それはMIDI文化の繁栄と衰退の姿を見た者たちが、新しい文化を形成したからです。
音楽ゲームの誕生
舞台はゲームセンターに移ります。
1997年12月10日、コナミ株式会社がbeatmaniaというアーケードゲームをリリースしました。
当時ブームになっていたクラブミュージックをテーマとし、DJシミュレーションゲームとして開発されました。
同社は「みらくるすぴん」というクレーンゲーム(の亜種)を作っており、同ゲームのボタンを押すと、ボタンや筐体の状態によって異なる音が鳴ることから着想を得たゲームでした。
そのゲーム内容は、画面上部から流れる譜面(ノート)に合わせてボタンを押すというものです。
このbeatmaniaは大ヒットし、その後もコナミはpop'n music(ポップン)やDance Dance Revolution(DDR)などを立て続けにリリースし、更なる成功を収めます。
音楽ゲームというゲームジャンルが確立した瞬間でした。
そして「音楽ゲーム文化」と呼ばれる文化も誕生することになります。
実は、音楽ゲームの始祖は1996年12月6日にソニーが発売した「パラッパラッパー」です。
beatmania以前にも音楽ゲームと呼べるゲームはありましたが、ジャンルを確立し、文化を作ったきっかけになったゲームがbeatmaniaだったということです。
余談ですが「パラッパラッパー」のプロデューサーである松浦雅也さんはミュージシャンでもあり、商用化される前のVOCALOIDで「24台の非同期なPDAのための合奏曲」という楽曲を制作しています。
この音楽ゲーム文化は多くの同人音楽家に影響を与え、後に東方アレンジやボカロといった同人音楽とも文化を交えることになります。
しかしそんな音楽ゲーム文化において、多くが語らないアンダーグラウンドな文化もありました。
MIDI狩りの影響を受けた「BMS文化」
BMS文化は、1998年に誕生した音楽ゲーム文化および音楽文化です。
MIDI文化とともに発展し、MIDI狩りの影響を受けつつも生き残り、2023年現在まで存続しているシーラカンスのような文化です。
ただしシーラカンスと異なるのは、時代によって姿かたちを変えていることです。
そんなBMS文化のお話を少しだけします。
BMSというのは主にBM98(※)のファイルフォーマットやシステムのことで、BM98はコナミのbeatmaniaをクローンして作られたゲームです。
BM98は、やねうらおさんとNBKさんによって作られ、当時のインターネットユーザーに広まりました。
※後にBM98の派生ソフトウェアである「Lunatic Rave 2」や「beatoraja」なども誕生します
川上氏:
いや,実を言うと,以前よりやねうらおさんのお名前は存じ上げてました。というか,僕も「BM98(※)」はやってましたしね。※KONAMIの音楽ゲーム「beatmania」を模したシミュレータ。併せてBMS(Be-Music Source file)という,MOD感覚で音楽制作&演奏が可能なファイルフォーマットを提唱し,ネット界隈で一大ムーブメントを巻き起こした。
やねうらお氏:
え,「BM98」をやったことがあるんですか!川上氏:
そりゃあ,あの当時,「BM98」は一大ムーブメントを巻き起こしてましたから。みんな知ってるでしょう。4Gamer:
電王戦,なんで勝てたんですか?――「ゲーマーはもっと経営者を目指すべき!」第15回は,「BM98」を開発した伝説的なプログラマー・やねうらお氏がゲスト
当時の作曲家の方の中には,後にプロに転向したり,著名なボーカロイド・プロデューサーになった方も多くて。ある意味で,ニコニコ動画の源流とも言えますよね。
後に天才プログラマーとして名を知られるようになったやねうらおさん。この時代のインターネットの話題になると、話し相手から高い確率でBMSの話題を振られる印象があります。私が音楽ゲーム好きを公表しているのでそうなるのでしょうが、音楽ゲームが好きというわけではない方の口から唐突にBMSの単語が出てくるものですから、驚きますよね。
BM98は1998年6月に作られました。
beatmaniaは1997年12月10日に稼働が開始したアーケードゲームなので、多く見積もっても約半年間で作られたことになります。
BMSには重大な事実があります。
BMSのプログラムの著作権がグレーであるということです。
beatmaniaの版権はコナミにあります。
完全に黒ではない理由は版権元のコナミが訴えを起こしていないことによります。
BM98の作者はソースコードを盗んだりリバースエンジニアリングをしたわけではありません。
プログラムやソースコード、BMSのファイルフォーマットは1から設計・製造したものでした。
つまりゲームセンターで稼働しているbeatmaniaの外観や画面のみから、すべてのシステムをPCで動作するように、独自に構築したのがBM98です。
しかし機能や仕様面で微妙に異なる点があるので、BM98がbeatmaniaの完全な模倣を目的としているというわけでもありません。(画面含めてほぼそっくりですけどね)
BM98はシミュレータであってエミュレータではありません。
「それっぽく作ったもの」という方が正しいニュアンスに近いでしょう。
もちろん、版権元に対しては苦しい言い訳です。
版権元に無断で作ったため、プログラムの著作権や特許などで権利的な問題を抱えており、2023年現在に至っても版権元からも存在を認知されていない(=黙認されている)という状態です。
さらに現在はやねうらおさんもNBKさんもBMSには携わっていません。
BM98は更新が停止され、開発者の手元を離れています。
著作権的にグレーでありつつも、現在まで文化が続いているのは特定の誰かの意思ではないのです。
理解がすごく難しいですよね。
すごく難しいので、拡大解釈せず、まずは文面通りに受け取っていただきたいです。
上記はあくまで概要であり、時代が進むにつれてBMSの立ち位置は大きく変わります。
1998年から現代に至るまで、BMSがアンダーグラウンドな存在である理由が上記です。
もし存在を知らなくても無理はないでしょう。
BM98には音源と譜面ファイルがあり、それを第三者が作成して配布できます。
当初は、有名な音楽(J-POP、ゲーム音楽など)の音源や譜面ファイルが多く出回っていました。
MIDI文化と同じことが起きていたのです。
1998年6月、後にコンピューター将棋で知られるやねうらおによってBM98の配布が開始される。当時はJ-Pop、ゲーム音楽、Midi音源のコピーやアレンジなどの楽曲が中心であったが、DAIのRainy Heartなどオリジナル楽曲も制作されていた。楽曲の情報等は掲示板やリンク集等で交換されていた。
BMS (音楽ゲーム) - Wikipedia
ところが、MIDI文化は前述の通り廃れます。
インターネットユーザーの脳裏には「MIDI狩り」の光景が焼き付きました。
特にBMS文化は、MIDI狩りに危機感を覚えました。
MIDIとBMSは基礎技術がとても似ているからです。
「聞き手が所持するMIDI音源が音源」として「MIDIファイルが楽譜」とするならば、「譜面ファイル群に同梱した音声ファイルが音源」であり「BMSファイルが楽譜」になります。
JASRACが著作権使用料を徴収した根拠は、MIDIファイルが二次著作物にあたると判断したからです。
MIDIファイルが二次著作物にあたるのならば、BMSファイルも二次著作物にあたり、BMS作者からも著作権使用料を徴収できる可能性があります。
「MIDIが狩られるならBMSも狩られるのではないか」という意識が芽生えます。
ただでさえBMSのプログラムやシステムが権利的な問題を抱えているのにも関わらず、それに付随する楽曲データや譜面データにも権利的な問題が顕在化してしまいました。
- プログラムやシステム
→コナミから訴えを起こされるリスク - 楽曲データやそれに対する譜面データ
→JASRACから訴えを起こされるリスク
どちらから訴えられた場合でも、結果としてBMS文化は衰退します。
ここに文化が廃れることを回避する流れが作られるようになります。
オリジナル曲であれば、少なくともJASRACから口を出される筋合いはありません。
BMS文化にオリジナル曲を作る文化があった点も、MIDI文化と同じでした。
コピー・アレンジ曲を作る勢力が衰退し、オリジナル曲を作る勢力が少しずつ大きくなります。
少しずつ、というのは、オリジナル曲を作ることに大きなハードルがあったからです。
BM98は音楽ゲームなので、BMSのシステムとゲームに対する理解がなければ譜面を作成できません。
それがコピー・アレンジ曲でなくオリジナル曲となると、作曲・編曲の知識も必要になります。
さらに不幸だったのは、MIDIファイルを作れるユーザーが少なくなったことでした。
当時のBMSではMIDIファイルからBMSファイルを作る手法(借りMIDI)が広まっていました。
既に作られていたコピー・アレンジ曲のMIDIファイルをもとにBMSファイルを作るためです。
具体的には、MIDI作者が音階やベロシティやタイミング等を耳コピで打ち込んで作成したMIDIファイルを、BMS作者が参照して1音ずつ録音して大量のwavファイルを作成し、その上でゲームに即した譜面ファイルを作成して配布していました。
MIDI文化が衰退したことで、この借りMIDIができなくなりました。
そうなると、コピー・アレンジ曲のBMS作者は耳コピから始めなければなりません。
コピー・アレンジ曲のBMSを作る勢力が衰退した理由は著作権だけでなく、ここにもあります。
BMSファイルは特殊な技術・技能がなければ作れなくなりました。
こうした事情を背景に、BMS作者が一時的に激減することになります。
しかし、BMS文化はMIDI文化と違って廃れませんでした。
理由はBMSをゲームとして楽しむ層がいたからでしょう。
ここから先はMIDI文化と異なる、独自の文化を築くことになります。
なお、beatmaniaの楽曲データを違法に抽出し、BMSで遊べるように変換したデータは解析BMSと呼ばれ、ユーザーからは文化を滅ぼしかねない存在と恐れられ、とても嫌われています。
例えプログラムがグレーな存在であるという矛盾を抱えていても、です。
このことからBMS文化では「プログラム」と「データ」の2つを分けて捉えていることが分かります。
後にアマチュア音楽家が集まることで、規模が少しずつ大きくなります。
有志が企画した楽曲制作イベントに有志が制作した楽曲が集まり、それがまた人を呼びました。
その中で最も規模の大きなイベントが、BMS OF FIGHTERS(※)です。
※通称BOF。G2RなどBOFではない名前で開催されることもあります
オリジナル楽曲が多い傾向にありますが、中には二次創作があることも特徴でしょう。
BOF2006優勝曲の「路上のギリジン-Shou+rt Mix-」はラーメンズというお笑い芸人のコントを元ネタとする二次創作楽曲です。
東方アレンジを使った東方BMSもこの頃から発展し、同人色が強い文化になりました。
イベントのルールは毎年異なり、優勝曲も一枚岩ではありません。
- 音楽としての評価(音楽性重視)
- 作品完成度の評価(作品性重視)
- 独特な美しさ評価(世界観重視)
- BMSらしさの評価(ゲーム性重視・文化重視)
ざっくりまとめるとこのような感じでしょうか?
BMSはプレイ中に映像を再生することができるため、一つの映像作品として投稿されることも多いです。
評価はプレイヤーの投票によって行われるので、投票者によって何を評価点とするかは異なります。
優勝曲を聴けば分かる通り、ルールさえ守ればこれといったお決まりはありません。優勝曲が注目されがちだけどそれ以外も良い
BOFが企画されるようになったのは2004年以降のことです。
このイベントは有志によって毎年企画されています。※2007年を除く
1大会で600曲以上の楽曲(オリジナル以外も含む)が登録されることもあります。
イベントは投票制で予め企画されたカテゴリごとにランキングされ、ランキングのほとんどがオリジナル曲になるという不思議な文化を形成しています。
例えばボカロにおいて「*ハロー、プラネット。」や「トンデモワンダーズ」などで知られるsasakure.UKさんや、東方アレンジにおいて「ナイト・オブ・ナイツ」「Help me, ERINNNNNN!!」などで知られるビートまりおさんは、ボカロや東方アレンジが登場する前からBMS文化に名を刻んだ作曲家です。
同人音楽の黎明期からある文化ですから、これは不思議なことではありません。
2023年時点で、BMS文化には25年以上の歴史があります。
BMS文化が25年以上続いている経緯には、MIDI文化の存在が大きく関わっているのです。
生まれた経緯から、BMSは今でもプログラムやシステムに権利的な問題を抱えています。
そんなBMSに大きな転機が訪れるのは、ボカロが同人音楽に大きな影響を及ぼした後です。
権利的な問題を抱えていることに変わりはないのですが、立場はさらに難しくなります。
さて、MIDI狩りの影響力の高さは何となくお分かりいただけたでしょうか?
ここで音楽コミュニティサイトのお話をしましょう。
あくまでお話の主役はボカロなので、少しエピソードを絡めていきます。
今は亡きサイト「muzie」
MIDIが衰退しても音楽制作を行いたかった者たちは、移住先を探しました。
その1つである音楽コミュニティサイトは、MIDI狩りの頃には既にありました。
後にVOCALOIDを作ることとなる、YAMAHA社が運営する「プレイヤーズ王国」もその1つです。
中でも、最も規模が大きかった音楽コミュニティサイトは「muzie」でした。
cosMo@暴走Pさんの「初音ミクの消失」をご存じでしょうか?
2008年4月8日にニコニコ動画へ投稿された有名な楽曲です。
実は、この曲には原曲があります。
cosMo@暴走Pさんがmuzieに投稿した「偽りの冒険書」という楽曲です。
偽りの冒険書 / (ジャンル:アドベンチャー) 2.9MB, 192Kbps 44KHz stereo (登録日:2007-09-04)
追記【11/11】こっそり「初音ミクの消失」で再利用されています。 そのRPGには魔法もなければ、明確な悪も目的も存在しない。しかし誰もがクリアしなければならない「現実」というRPG。
https://web.archive.org/web/20110602050414/http://www.muzie.ne.jp/artist/a047541/
cosMo@暴走Pさんが音楽制作を行うきっかけは、音楽ゲームの音楽が好きでDTMに興味を持ったことであり、初音ミクが登場する前から音楽制作を行っていました。
cosMo@暴走Pさんは音ゲーでよくお名前を拝見します。当時騒がれたので今だから書ける表現ですが、neu、uən、初音ミクの激唱、Idolaという4つの楽曲には秘められた関係性があり、音楽ゲームとの繋がりを感じさせます(私は4曲とも好きです。Idolaはエモすぎてもうね)
音楽家になろうと思ったきっかけはなんでしょうか。
cosMo「初音ミクが出る1年くらい前からピアノやってたので、音楽投稿サイトに投稿してて。そこで初音ミクを知って『面白そうだから本格的にやろうかな』と思ったのがきっかけでした」
当時cosMo@暴走Pさんは20歳で、大学在学中だったそうです。
ボカロP・cosMo@暴走Pが明かす「初音ミク」高速歌唱の秘密 | RadiChubu-ラジチューブ-
もともとはリズムゲーム音楽が好きだったこともあって、DTM(デスクトップミュージック)を作ることに興味を持ったとのこと。
そんなcosMo@暴走PさんがボカロPを始めるきっかけにも着目してみましょう。
元々muzieで活動していたcosMo@暴走Pさんは、同じくmuzieで活動していたOSTER projectさんが初音ミクを使用しているのを見てボカロPを始めた経緯があります。
※OSTER projectさんは2003年にmuzieで活動を開始した同人音楽家です。こちらもボカロPとして有名になります(当時のmuzieのアーカイブから音ゲーアーティストに影響を受けたことも分かります)
― 初音ミクを使い始める前から作曲はされていたんですか?
― 暴
はい。インストゥルメンタル曲を作ってMuzieで公開してたりしてましたね。― ミクを使った曲を投稿されたのが2007年10月02日と、非常に早い時期でしたよね。
― 暴
初音ミクの暴走のルーツは「らき☆すた」?ハイスピードでハイテンションな楽曲でおなじみ、cosMo@暴走Pインタビュー | アニメ!アニメ!
kzさんの「Packaged」やbakerさんの「cellroid」が出たぐらいの時期ですね。その頃はお二人とも名前を知らなかったんですが(笑) その頃唯一知ってたのがOSTER projectさんで、あの人もMuzieで曲を公開していたので知っていたんですよね。
で、覗いてみたら初音ミクなんてのを使ってておもしろそうだな・・・って思って使い始めてみたんですよね。
muzieは、1999年にサービスを開始した音楽配信サービス(サイト)です。
音源のアップロードとダウンロードが可能で、楽曲検索機能やランキング機能もありました。
かつては日本最大級のインディーズ音楽配信サイトとも言われ、YouTubeやニコニコ動画のような動画共有サービスもなかった頃、インディーズや同人音楽家が好んで使っていました。
しかし、前述の動画共有サービスが登場したことや運営会社変更後の信用低下などを理由として、2010年代から利用者が減り、2017年5月31日にサービスが終了しました。
サービスが開始した1999年、運営を行った年数は18年間です。
特に2000年代初頭はMIDI文化の混乱期にあたります。
自作曲を発表する場所が限られていた中で、muzieのように利用者が集中するサイトは貴重な存在でした。
Wikipediaのページの記載だけでもmuzieからメジャーデビューしたアーティストが散見されることから、音楽文化に与えた影響は大きかったと推察できます。
同人音楽とインディーズ音楽の違いって?
インディーズ音楽での活動を軸にしているアーティストやバンドが同人音楽活動に参入し、宣伝手法の一つとして同人音楽活動を利用するケース、CDの販路の一つとして同人誌即売会や同人誌委託ショップを利用するケースも見られるようになった。
インディーズ音楽と同人音楽の活動とは内容が被る点、混同される点もあるが、主に以下の事柄からしか区別ができない。
・作り手自身が「自分の音楽活動は同人活動である」という意識を持って活動していること
・作品発表の場として、同人イベントでの頒布や同人ショップへの委託を第一としていることしかし、同人音楽が(広義での)インディーズ音楽の一スタイルであるという見方も存在するため、話題とする際は、それぞれの意味するところを明確にした上で論じなければ誤解を招く可能性もある。また、同人音楽出身のアーティストについては、その同人活動の作品が「インディーズ作品」として紹介されることに抵抗を示すファンも少なくない。その一方で、インディーズと同人の境界線は年々希薄さを増しており、綿密な区別は以前よりも一層付きにくくなっているのが現状である。
同人音楽 - Wikipedia
要約すると、
- 趣味の一環として活動していれば同人音楽
- メジャーデビューを目指して活動していればインディーズ音楽
でしたが、同人音楽がメジャーデビューを果たしたり、インディーズ音楽が同人活動を行うようになってからは区別が曖昧になったということです。
「メジャーデビューを目指してはいるが、活動者の認識は同人音楽」ということであれば同人音楽になるでしょう。
muzieもインディーズ音楽配信サイトと言われてはいますが、同人音楽家も活動していたため、ここでも明確な区別はされていません。
時代が進むにつれて、既にメジャーな活動者が同人音楽を行う事例も増えていきます。
今となっては、意図が伝わるならどちらを使ってもよいのではないかと思います。
しかしこの2つの意味合いを大きく分けるのは意識の差なので、当事者がいる場では注意が必要です。
インディーズバンドに同人と言うのも、同人サークルバンドにインディーズと言うのも失礼だからです。
音楽家だけどぶっちゃけ初めて聞いたわという方もいるでしょうし、そんなに気にする必要はないかもしれませんが、念のため
「東方アレンジ」の台頭
「東方アレンジ」は、同人音楽の権化とも呼べる存在です。
そんな東方アレンジが誕生したのは、2004年頃のことです。
始まりは東方Projectの二次創作が流行したことでした。
同人サークルが出現し始めたのは2003年頃のことです。
2004年春には初の東方Project作品オンリーの同人イベント「博麗神社例大祭」が開催されました。
そんな中で、音楽という表現で二次創作が行われるようになります。
ZUNさんが東方楽曲に関する二次利用の条件を初めて提示したのは2004年1月17日です。
音楽系同人即売会「M3」においても2004年春の参加サークル一覧で東方サークルの存在を確認できます。
東方Projectの原作者であるZUNさんは、在籍していた大学のサークルで自作ゲームを頒布していました。
ここで5つの東方原作をリリースしましたが、大学卒業と就職のため活動を中止します。
その4年後、サークル名を「ZUN Soft」から「上海アリス幻樂団」に改め、活動を再開します。
そして、2002年8月に開催されたコミックマーケット62においてゲーム「東方紅魔郷」を頒布し、これがきっかけとなり、世の中に東方Projectの名が知られるようになりました。
ZUNさんは、東方原作のプログラム・ストーリー・イラスト・音楽の全てを一人で作り上げています。
それら全てを独学で身に付けたことから、特殊な環境に置かれていたわけではないことが分かります。
ZUNさんが東方を生み出したきっかけは、音楽を作りたかったこと、ゲームを作りたかったことの2つであると明かされています。
4Gamer:
ここからはZUNさん本人の話を聞いていきたいと思います。まずは,ゲームを作ることになったきっかけから教えてください。ZUN:
―特集― シューティングの方法論 第1回
単純に「ゲームが作りたい」ってのはあったんですけど,それよりも,音楽を作りたかったてのがあるんですよ。ゲームミュージックを作りたくて,仕事にもしてみたかったんです。それで音楽の勉強して,作って。でも,それがゲームに流れるアテはない。だったら,自分の音楽がゲームに流れるように自分でゲームを作ってしまおう。その感覚が最初です。
ただ,プログラムを勉強しなきゃゲームを作れないから勉強して,今度はゲームには絵が必要だからドット絵描いて……。小さなゲームを実験で作って,友達にちょっと見せてみたりしてました。
どちらかというと音楽に重きを置いていることが分かります。
そして、自身の音楽はゲーム性にも表れていきます。
──おふたりはご自分で作曲もされていますが、ゲームに音楽をつけるときに心がけていることがあれば伺いたいです。
トビー氏:
もともと作り溜めていた曲を使ったりもしていますが、基本的には、どんなシチュエーションで、どんな感情に作用するのかを考えて作曲しました。
曲はゲームを作る前から作っていたので、曲に合わせてストーリーを作った部分もあります。この点は一般的なゲームとは逆の流れかもしれません。ZUN氏:
じつは『東方』も先に曲を作ることが多いんです(笑)。トビー氏:
そうなんですか! 『東方』は、曲の流れがステージ展開とシンクロしているところもスゴく好きなんです。ポーズすると、ちゃんと音楽も止まるという……。ZUN氏:
それは、そうしないとずれちゃうからですよ(笑)。音ゲーみたいに、曲に合わせる感じで敵を最速で倒していくと、いちばん気持ちがいい状態で敵が出てくるようにしています。トビー氏:
僕はそういうところにすごく影響を受けて、『UNDERTALE』の最悪なルートでは、アンダインのステージと音楽がシンクロするようにしました。ZUN氏:
『UNDERTALE』トビー・フォックス×『東方』ZUN×Onion Games木村祥朗鼎談
あそこカッコイイよね(笑)。そういう演出にする気持ちはよくわかります。
対談相手のToby Foxさんはゲーム史に名を刻む作品「Undertale」の開発者ですね。伝説的な対談です
ZUNさんは音楽を主体にゲームを作ることがあるほど、ゲームと音楽のシナジーに重きを置いています。
ゲーム音楽ならではの音楽ということです。
それゆえにアレンジの幅がとても広いことが特徴です。
特に東方アレンジにはボーカル曲が数多くありますが、歌うことを想定して作られていない原曲をボーカルアレンジしているので、必然的に大胆なアレンジをすることとなり、聴き手にもそれを受け入れて楽しむ文化が形成されています。
1つ目の「おてんば恋娘」が原曲です。いずれも全く異なる印象を受けるでしょう。音楽におけるアレンジには「コレジャナイ感があると受け入れられない空気」が見られますが、東方アレンジにはそのような空気がないのも特徴だと思います
通常、ゲームを発売している版権元の企業にアレンジの許可を得ることは不可能です。
そのため、アレンジした音源は趣味の範疇で楽しまれていますが、東方アレンジはそこが違っており、公式が提示した二次創作ガイドラインのもとで作られています。
企業が許可を出すことができない理由は様々です。
企業が版権を持つ作品では立場の異なる複数の人間が関わっているので許可を出すハードルが高く、一度許可を出すと他の人にも許可を出さなければならなくなり、さらに話が難しくなります。
ただでさえ大変なゲーム制作業務から著作権管理のための人員を割けない事情もあるでしょう。
不可能というのはそういった事情が絡んでいます。
東方原作は全ての版権をZUNさん個人が持っているため、一個人の意思で許可を出せます。
たくさんの人に許可を出すのは大変なので、二次創作ガイドラインを設けることで東方アレンジを認めています。
同人文化の中心で生まれた作品ですから、二次創作のOKラインとNGラインを自身で考えられるユーザーが多く、秩序を保ちやすい土壌があっての運用でもあります。
東方Projectの二次創作は音楽だけでなく、同人誌、イラスト、小説、漫画、ゲームなど多岐に渡ります。
音楽のみならず、二次創作という文化そのものに大きな影響を与えました。
数多の文化の指針であり、東方Projectがなければボカロ文化の在り方も異なっていたでしょう。
東方アレンジという文化は、ゲームや音楽という文脈で見ると理解が難しいかもしれません。
東方アレンジの性質はゲーム文化や音楽文化のそれよりも二次創作文化に近いからです。
——『東方』ってもともと同人シューティングですよね。あらためてなんですが、どうしてシューティングなのにこれだけ東方アレンジ楽曲が一大ジャンルになって、いろんな音ゲーに楽曲が使われるようになっていったんでしょうか。
ビートまりお氏:
同人音楽というジャンルがコミックマーケット(以下、コミケ)にはあるのですが、そのなかでも二次創作アレンジという文化があります。例えば絵描きさんの場合、推しのキャラをイラストで描くファンアートって文化があるじゃないですか。それと同じように、同人音楽アレンジも好きなゲームのファンアートみたいなものなんですよ。——なるほど、PixivやTwitterに好きなアニメのキャラのイラストを上げるみたいな。
ビートまりお氏:
同人音楽は東方が流行るもっと前から存在していまして、例えばLeafやKeyといったエロゲー音楽のアレンジだったり、PCMMOの『ラグナロクオンライン』のBGMアレンジなどで賑わっていたんです。自分は2000年くらいからずっと同人音楽をやっていて、Leaf、Key、ラグナロクオンラインなどのアレンジもしていたのですが、2003年ごろからコミケ界隈でも『東方』が盛り上がってきまして、その最初期に自分も『東方』のアレンジ楽曲を作り始めましたね。
そもそも『東方』ってSTGなのになんで音楽文化が発達したの? 人気の音ゲー『Muse Dash』が『東方』とコラボしたので、ビートまりおとモリモリあつしに話を聞いたら濃ゆい東方楽曲アレンジ文化の歴史が出てきた
記事見たらモリモリあつしが楽しそうでニッコリした
エロゲーやMMORPGのアレンジが広まっていたのは、MIDI狩りの対象にならなかったという事情もあります。
それでいて、どちらも当時のインターネットで支持を得ていました。
言うなればインターネットから愛されていたオタクコンテンツは音楽だけでなくイラストや小説など、JASRACとは全く関係のない次元で盛り上がっていたのです。
ここに「東方紅魔郷」がリリースされ、とても大きな人気を博しました。
東方Projectもまた愛されるようになり、「ファンアート」がたくさん作られるようになったのです。
こうして生まれた東方アレンジは、後に同人音楽界隈において最大級の勢力になります。
そして東方Projectは、ニコニコ動画という場所でVOCALOIDと出会うことになります。
当時から現代まで続く同人音楽
上記のほか、ガラケー用の着メロも自作の音楽の対象でした。
俗に「着メロ文化」と呼ばれました。
これは2000年代によく使われましたが、スマートフォンの普及によって使われなくなることで廃れます。
私もガラケーでゲーム音楽の着メロをダウンロードして聴いたことがあります。
ゲーム音楽館をご存じの方も多いのではないでしょうか?
2001年6月28日から個人で運営されているサイトで、なんと2023年現在も運営されています。
時期的にMIDI狩りが行われた頃に設立されたサイトなので、サイト概要にはMIDI狩りにも少しだけ言及されています。
個人のホームページ内で音源を公開している方は、今でもいらっしゃいます。
2004年から運営されている魔王魂など、特にフリーBGM分野では今でも文化の生き残りが見られます。
さて、インターネット上のお話はこんなところにしておきましょう。
同人音楽を語る上で外せないのは、同人即売会です。
同人音楽の即売会で特に規模が大きいのは、コミックマーケットとM3です。
コミックマーケットは1975年を起源とする世界最大規模の同人即売会ですが、音楽に限った即売会ではないため、ここでは説明を省きます。
M3は毎年春・秋に東京流通センターで開催される、CDやDVDなどの音楽系の同人即売会イベントです。
初めて開催した年は1998年です。
かつては1枚5000円だったCD-R(CD-Rドライブは40万円)という高級品が、1997年末には1枚数百円になっていて、個人にも手が届く価格帯になったことがきっかけで開催されるようになりました。
※CD-Rは650~700MBほどまでのデータを1度だけ書き込みできるディスクです
公式サイトからは参加サークル一覧を見ることができます。
自作の音楽のほか、ゲーム音楽のアレンジ音源CDを頒布するサークルが主に見受けられます。
ゲーム音楽のアレンジについて、「著作権法に違反しているからダメだ」と思いますか?
原初に立ち返って、著作権法が文化の発展を目的とした法律として定義されていることに着目しましょう。
第一条 この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする。
著作権法 | e-Gov法令検索
こういった同人イベントはお金を稼ぐ目的で行うものではなく、赤字でも活動を続ける方がいます。
そうしてまで活動を続ける理由は「好きだから」です。
特にゲームの場合は著作権を企業が有しているケースが多いです。
イベントそのものがユーザー同士の交流という側面があり、またコンテンツを盛り上げるユーザーの一人でもあるため、悪質なものやコンテンツのイメージに反する活動でない限り、取り締まりに動くケースは稀です。
つまり、文化の発展に寄与する活動ならば企業としては取り締まる理由がないのです。
そう、MIDI狩りの対象になったのは「JASRACの管理楽曲」です。
企業が著作権を直接管理している場合、その判断は企業によって異なります。
JASRACは一般社団法人(非営利法人)であり様々な音楽家から権利を預かる一方、この場合の企業は営利法人であり自身で著作権を管理しているので、著作権の行使目的が違います。
著作権は権利者が行使した時点で初めて「明確な違法」になります。
裏を返せば、権利者が著作権を行使しなかった場合、違法であるか否かを判断する権利は誰にもありません。
早い話が、訴える権利は企業にあってその企業以外にはありません。
なので企業の自由にしてよいということです。
企業側は様々な理由によって許可を出すことができません。
しかし禁止もしない環境はここから作られました。
だからこそゲーム音楽のアレンジは発展したのです。
もっとも作り手にとっては単純に「そのゲームが好きだから」という理由が一番でしょう
同人活動は、版権元から交流や文化活動と見なされていることが重要です。
キャラクターのファンアートが最たる例でしょう。
それらは版権元の営利活動に支障をきたさず、ブランドのイメージを損なわない範囲で行われることです。
M3の公式サイトのページ「M3とは」より転載。「M3 2011年秋」の様子
M3には毎年1万人の来場者と1200サークルが参加しています。
1200という数字も抽選による選別を行った上での数字で、抽選前は2100を超えた年もあります。
このように、同人音楽はその規模を少しずつ大きくしました。
転機はM3が開催されるようになった1998年頃でしょう。
同年にBMS文化、1999年にはmuzieが誕生しました。
2001年を契機にMIDI文化が廃れるものの、2004年には東方アレンジ文化が誕生しました。
そして、2007年にボカロ文化が誕生します。
これが後に、音楽業界に対してとても大きな影響を与えることになります。
同人音楽におけるボカロ文化の到来は、革命と言っても過言ではありません。
革命に伴う混乱もあったからです。
これからお話する内容は、決して明るいものとは言いません。
VOCALOIDの音楽文化が、大衆に受け入れられるまでのセカイを、後世に伝えること。
これがこの記事の趣旨だからです。
しかし、VOCALOIDを知っている方はその結末も知っているはずです。
最後の1ページには輝かしいセカイがある、という結末を。